FAZER LOGINそれは、午後三時を少し過ぎた頃だった。
「平田、少し時間いいか」 課長の声は、いつもより低かった。 嵩は一瞬だけ手を止めてから、頷いた。 「はい」 会議室は使われていて、場所は給湯室の奥。 半分、人目を避けるような位置。 その時点で、ほぼ分かっていた。 「……単刀直入に言う」 課長は、周囲を一度見回してから言った。 「来月付けで、地方支社への異動。 最終承認待ちだが、覆る可能性は低い」 “ほぼ確定”。結婚式当日。 柔らかな陽射しが、チャペルのステンドグラスを照らしていた。 純白のドレスに身を包んだ朱里は、少し緊張した表情で立っている。 「大丈夫?」 控室で声を掛けたのは美鈴だった。 「……手が震えてます」 「結婚式なんだから当たり前」 美鈴は笑って朱里のベールを整える。 「でもね」 「昔のあんたなら、『大嫌い』って言って逃げてたわよ」 朱里は吹き出した。 「言ってたかも」 「今日は?」 朱里はゆっくり首を振る。 「もう言いません」 チャペルの扉が開く。 祭壇の前には、少し緊張した嵩が待っていた。 目が合う。 それだけで、お互いに笑ってしまう。 式は穏やかに進んだ。 指輪を交換し、誓いの言葉を交わす。 拍手が響く。 披露宴では、美鈴が友人代表としてマイクを握った。 「朱里は、本当に素直じゃありませんでした」 会場が笑う。 「『大嫌い』って何度も言うくせに、一番好きだったんですよね」 さらに笑いが広がる。 朱里は顔を真っ赤にして俯いた。 嵩は隣で肩を震わせて笑
休日の午後。 朱里は嵩に呼ばれ、二人が初めて昼食を一緒に食べたイタリアンレストランを訪れていた。 あの日と同じ窓際の席。 メニューを見ながら、朱里が笑う。 「またパスタなんですね」 「思い出の場所だからな」 「……あのとき、フォークがうまく使えなくて笑われたんですよね」 「今でも覚えてる」 「忘れてくださいって言ったのに」 二人で顔を見合わせて笑う。 あの頃は、こんな未来が来るなんて想像もできなかった。 食事を終え、店を出る。 冬の風が吹き、朱里の髪が揺れる。 嵩は自然にその手を握った。 「少し歩こうか」 並んで歩く道は、昔よく一緒に帰った道によく似ていた。 「朱里」 呼ばれて振り向く。 嵩は少し照れたように笑っていた。 「俺さ、お前の『大嫌い』に何度も振り回された」 「……ご、ごめん」 「でも今なら分かる」 「全部、『好き』だったんだよな」 朱里は恥ずかしさで顔を赤くする。 「思い出させないでください……」 嵩はポケットから小さな箱を取り出した。 ゆっくりと開く。 陽の光を受けて、小さな指輪が輝い
改札を抜ける人の流れの中で、朱里は立ち止まっていた。約束の時間より、少し早い。嵩はまだ来ていない。──待つ、って。こんな気持ちだったんだ。不安がないわけじゃない。でも、胸の奥にあるのは、落ち着いた温度だった。スマートフォンが震える。《今、着いた》朱里が顔を上げると、少し離れた場所に嵩が立っていた。スーツ姿。少しだけ疲れた顔。でも、こちらを見つけた瞬間、表情が緩む。その変化に、朱里は胸がいっぱいになる。歩み寄ってくる足音。いつもの距離で、止まる。「お疲れさまです」「中谷も」それだけで、十分だった。並んで歩き出す。会えなかった時間を埋めるような会話はしない。天気の話も、仕事の愚痴も、今日は要らない。駅を出て、夜の街へ。「……変わった?」嵩が、ぽつりと聞く。「何がですか」「雰囲気」朱里は少し考えてから、答えた。「変わった、というより……逃げなくなった、かもしれません」嵩は、歩きながら小さく笑った。
嵩がいなくなってから、オフィスは少しだけ広くなった。実際には何も変わっていない。同じデスク、同じコピー機、同じ始業のチャイム。それでも朱里は、空気の密度が違うことに気づいていた。「中谷さん、これ確認お願いします」瑠奈が資料を差し出す。相変わらず、まっすぐで、遠慮がない。「ありがとう」朱里は受け取りながら、ふと笑った。最近、自分がよく笑うことに気づいている。無理に明るくしているわけではない。ただ、息がしやすくなった。昼休み、スマートフォンが震えた。《今週は向こうも落ち着いた。 来週、そっち行けそう》短い文面。絵文字も、余計な言葉もない。朱里は、すぐには返さなかった。焦らなくていいと、思えるようになったから。《無理しないでください》そう打ってから、少し考える。《でも、来てくれたら嬉しいです》送信。胸の奥が、きゅっと鳴る。それでも、不安より温かさのほうが大きかった。仕事帰り、駅までの道を歩く。以前なら、隣に誰かがいないことを数えていた。今は、次に会える日を数えている。──変わったな。
朝の空気は、思ったより冷たかった。朱里は駅へ向かう途中で、何度も足を止めそうになった。見送ると決めたのは自分なのに、身体がそれを拒んでいる。改札前は、人が多かった。出勤の波と、出張者と、いつもの朝。──この中に、嵩も混じってしまう。そう思うと、胸の奥がきゅっと縮む。「中谷」後ろから呼ばれて、朱里は振り向いた。嵩はスーツケースを足元に置き、少し困ったように立っていた。昨日と同じ顔。でも、もう“同じ日常”の人ではない。「来てくれて、ありがとう」「……はい」それだけで、会話は途切れた。言うべきことは、もう全部言った。そう思っていたのに、沈黙はまだ重い。嵩は一度、視線を落とす。それから、意を決めたように口を開いた。「答え、ちゃんと用意してきたんだけど」朱里の指先が、わずかに震える。「……でも、やめた」驚いて見上げると、嵩は小さく笑った。「昨日の夜、考えた。“行く”“行かない”とか、“待つ”“待たせる”とか……全部、結論を出そうとした」スーツケースの持ち手を、軽く握り直す。「でもさ、それって──朱里の選択を、先に奪う気がして」
朱里の言葉が消えたあと、オフィスには、しばらく何も起きなかった。嵩はすぐに答えなかった。慰める言葉も、綺麗な締めも用意しない。ただ、視線を外し、ゆっくりと息を吐く。「……そっか」それだけ言って、少し笑った。苦笑に近い、でもどこか安堵したような表情。朱里は、その横顔を見つめる。“大嫌い”と言わなかったことで、何かが壊れる気がしていた。でも壊れたのは、沈黙のほうだった。「正直に言うと」嵩は天井を見上げる。考えを整理する癖は、昔から変わらない。「最初から、嫌いだなんて……信じてなかった」朱里の胸が、ひくりと鳴る。「冗談だって、照れ隠しだって、分かってた。……分かってた、つもりだった」嵩は朱里を見る。真っ直ぐだが、責める目ではない。「でも、信じ続けるのって……結構、怖い」その一言で、朱里は悟った。彼もまた、守っていたのだと。「嫌われてないって信じるのは、裏切られたときに、全部自分が傷つくから」嵩は、そこで言葉を切った。「だから俺は……途中から、“本気で嫌われてる”って思うほうを選んだ」朱里は何も言えなかった。







